FPアドバイザー

FPアドバイザー

稲葉充

代表取締役会長

すべてのクライアントに正しい資産運用を伝えたい。

日々心がけている事は

クライアントは金融について素人で非常に無知であるということをアドバイスする側の私自身が十分に理解認識すること。そんなクライアントに対し、金融の世界の一端をどれだけ分かりやすく丁寧に我慢強く伝えることができるかということに腐心している。

純粋に人が喜ぶ顔を見た時の昂揚感… 忘れられへん

私は色んな勉強をして理論武装した上で、これからの世の中は「明るい」と信じてるのにセミナーや面談で出会う多くの人たちは「暗い」と思っている。それは間違いやで!って伝えて行きたい。そして、たくさんの人に「稲葉と出会えて良かった」言ってもらいたい。PTA時代に、お金やビジネスに関係なく純粋に人が喜ぶ顔を見た時の昂揚感や使命感を知ったから、人に笑顔を届けて、人から必要とされる人間になりたいと強烈に意識し始めた。この思いはこれからもずっと追い続けて行こうと思う。

略歴

1983年3月、関西大学法学部法律学科卒業、在学中わずか2年目に司法試験受験を断念。アルバイトと雀荘通いで4年間の歳月を大いに楽しむ。今にして思えば、本当に無益な時間を過ごしたものだと反省する。1983年4月大和證券入社(22歳)。92年までの在籍期間9年間で3度の転勤。

時はバブル。給料は飛躍的に上昇、入社3年目に結婚(24歳)、翌年長女誕生(25歳)。その3年後に次女誕生(28歳)。社会人になって、わずか数年間で早くも『この世の春』を謳歌する。バブルの恩恵を多大に享受した証券業界に身を置いたことを最大限楽しむ。ひたすら会社のために業務に邁進、顧客の存在はほとんど眼中になかった。ただただ出世するために、学んだ金融知識や技法を活用し、株式はもとより債券、投資信託、先物、オプションなど最新の金融商品を売りまくる。ただし、理論武装の必要性と将来不安(妻は出世しか眼中にない私には否定的)から転職を決意。1992年大和證券を退職し(31歳)、大手公認会計事務所に研修生として転職。同じお金の世界でも証券金融とは全く異なる税務・会計・監査の世界を見て愕然とする。全く事務所内の会話についていけない。4大証券勤務というプライドは日を追うごとに瓦解し、存亡を賭けて必死になって知識の習得に努める。

『給与はない』『知識もない』『プライドも自尊心もない』兎に角【ない(NOTHING)】づくし。

この職場で7年間の歳月を費やすが、ここで得たものは大きかった。給与補填の意味もあり、事務所の許諾を得て業務に差し支えのない範囲で保険代理店(個人事業)を開設させていただく。妻と二人で身内に保険加入の手ほどきをおこなう。幾許かの収入が家計を助ける(このときにクライアントから多大な支援・紹介をいただく。今、私たち家族が生きていけるのも、当時のクライアントの方々からの多大な紹介があったからといっても過言ではない)。その間4年、会計事務所職員と保険代理店店主として活動。

1999年(38歳)、株式会社財コンサルティングの前身、株式会社保険活用クリニックを創業。 金銭教育プログラムとして「大人の塾(マネー塾)」を開講。受講者はほとんどなし、大いに苦戦。ただし、ここでも受講者/クライアントからの大いなる支援をいただき、運営、マーケティングの手法を模索しながらも次第に事業が安定化する。 2003年3月株式会社保険活用クリニックから株式会社財コンサルティングへ社名変更。事務所を現中津に移転し(それまでは自宅をオフィスとして利用)、大阪・東京・福岡を拠点に事業を拡大。【クライアントからの支援】と【時代の潮流】と【運】とわずかな【努力】の賜物で現在に至る。

補足だが、32歳から41歳までの10年間、本当に資金もなく、満足に人並みの外食や旅行なども出来なかったため、我が愛する娘たちのためにとPTA会長職(中津小学校PTA会長、大淀中学校PTA会長、大阪市北区PTA協議会会長)に従事、青少年育成、地域活性化にわずかながらも貢献する。特にないが、敢えてこれまでの自分の人生を振り返れば、「ネバーギブアップ(絶対に諦めない。絶対に後ろ向きにならない。絶対に逃げない)」かな。お金の世界、恋愛の世界、ビジネス(仕事)の世界においても、そうしてきたように思う。欲しいものは絶対に手に入れるまで「諦めない」。40歳代まではスキー、野球、40歳代半ば以降は仕事が趣味になってしまっている。 スキーは学生時代より毎シーズン、北海道・信州へ。子供たち誕生時より背中に担いで スキーを楽しんだ。野球は地域の草野球チームで地区大会などにも参加し、年甲斐もなく 奮闘していた。


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